昭和46年09月24日 朝の御理解



 御理解 第62節
 「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心もしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」

 「人よりわれもなおよかれ」と。人もようなからなければんらん。けれども自分はなおようなけねばならんと。それは世間で言うておることですから、自分さえよければよいという意味ではない。ちょっぴり人もようなからなければならんとこう、これは世間一般での、まぁいい、言いぐさでありますけれど、神信心もまずわが身の上におかげを受けてと。そして「後に人を助けてやれ」と仰ってある。
 ですからそこの事は、言葉の語呂はよく似ておりますけれども、これは人を助けるという事が前提になっておるのです。自分自身が助かっておらなければ、人は助けられんと。という「人よりわれはなおよけれ」という、そういう風にあるけれども、そうではない。人が助ける、人を助けるという事が、いわゆる前提である。為に自らが助からなければならんというのである。
 そこで「わが身の上におかげを受けて」と言う事ですけれども、これは「わが身の上におかげを受けて」と言う事は、まずわが身が助かっておると言う事。ここで改めて教祖様のお言葉であります、又はまぁ金光様の信心の、教祖の信心の眼目とでも言う所ですね「此の方は人が助かりさえすれば」と仰っておられる。だから様々な問題が起きます時ですね、お道の信心は「人が助かる事さえ出来れば」と言う所に焦点を置けば、答えは自ずと出てくるじゃないかと言った様な事が言われるのも、そう言う訳です。
 こう問題は色々あろうけれども、教祖様のご精神が、ただ人が助かる事さえ出来ればよという。ね。そこに焦点を置かれる時に、問題が解決する。なら教祖様が「人が助かりさえすれば結構である」と仰ったその内容というものは、どういうようなことかと。私この頃、その事がまぁ青年教師の、ここで信心実習会の時に話題になりましたから、申しました事でしたけれども。
 あれは教祖様ご自身が、助かられるという事だという風に申しました。いかに「人が助かることさえ出来れば」というたところで、ならここでもそうです、私がいかに「人が助かる事さえすればよい」というたところで、助からなかったら、人がどんどん集まっていくとだけではね、どうにも仕方がないことなの。だからいうなら、最後のところにね、「信心も手習いも同じこと。
 一段一段進んで行くのじゃ」と仰るように、自分の信心が一段一段進んで行くにしたがって、集まってくるでなからなければ、助かりを、だから私がお導きという事をいわんのです。さぁさっさと導きなさい、導きなさいとはいわん。けれども自分自身が助かって、その有り難いの一念がお導きになってくるというのは、これは違います。私がお導きせんと助からんと言った様な事はいわんというのは、そういうわけです。
 自分の力を知っているね、私が百斤しか持てない、力しかないのに百斤、五十斤のものをもって来たところで持ちきらん。もっといったら、うちのものをおかなきゃならん。そう言う事になるでしょうね、そこで私は、問題は私自身がもっともっと力を受ける事だと。もっともっと私がおかげを受けることだと言う事になるのです。だから私がおかげを受けると言う事。私が助かると言う事ね。
 けれどもね、「人よりわれはなおよけれ」というて、人を押しのけてでも、自分が先によくならなければならんという意味とは違うのですね、自分が力を受けると言う事。自分が助かると言う事。自分がおかげを受けてと仰る。自分がおかげを受けると言う事は、人が助かるという、また人を助けると言う事の御用がです、前提として自分が助からなければならんと。
 偉いこう理屈っぽくなりましたですけれど、私はここんところは、そこが分かっとかんと、何かちょっと読んだのを聞いただけ、又読んだだけでは、金光様のご信心は自分さえよかりゃよかとばいの、と言った様な感じを受けんでもないですね、ここんところで。そりゃ人もようなからなにゃならん、そればってんそれよりか自分なもっとようなからんにゃというところだけを聞くと、そういう感じがするですね。そりゃ人もようなからにゃいかん。けれども、自分がなおようなからにゃならんと言う事なんです。
 けれども惟は、いうならばまずわが身におかげを受けて、信心でわが身の上におかげを受けてというのは、そして「後に人を助けてやれ」。後に人を助けてやる事の為に、その前提として、自分自身が助かっておらなければならんというのです。昨日私ある方のお届けをさせて頂いとったら、何ていうでしょうか、あの鷲という鳥がおりますね。大きい、人をもさらうと言う様な大きい鳥です鷲。あの鷲の目というのは非常に鋭いですね。意地の悪い人の目なんかは、鷲の目のごたる目しちゃるちいうでしょうが。
 ぎょろっとそしてこう、睨め付けた様な目ですね。いわゆるわしがという目なんです。わしが働いとるからお前達は食べられるとぞ。わしがここにおるから、ここが建っとるとぞね、これはもういよいよ自分が助かることの出来ない心ですね。ここでは自分がまず助からなければならない。そのために一つわしがというのをとらないけんです。昨日お取り次ぎさせてもらいよったら、その人がですね、もう本当に鷲の目のような、鋭い目でぱっとこう斜めの所を、丁度人の足元になるところですたいね。
 をこうまぁ見とる。見らんでおるわけじゃなかろうばってん、見ておるといういうなら表情を頂いた。これじゃ助かられんなぁと思うた。人の足元は見えますよね、私共でも見えます。見えますけれどもね、おだやかに見らにゃ。柔らかなねある場合には、それこそにこやかにというかね、それは決してよい事はないけれども、却って可愛らしさが感じるような見方をしなきゃいけん。何故かって信心の段が違う。年が違うんです。そう言う事になりましょうが。
 人の足元ばっかり見るところには、人の足元はやはり見えます。それが人間です。見えますけれどもですね、いわばその目に余るような事であってもです、祈らにゃいけません。こりゃもう最近の私の信心をいうならばと、いうとね、黙って治めると言う事。それは目に余るような事があります。けれどもそんな鋭い、もうどうした奴じゃろうかと言った様な見方はしない。いわゆる豊かな心でそれを見る。例えば私の子供達のことでもです、そりゃ目に余る事があります。けれども鋭い見方はしない。
 いくらいうても分からんと言った様な見方はしない。やはり人の足元は見ちゃならんというても、やはり見えるのだそうして。見えるけれども、それを自分の信心の資にする又は相手を祈らせて頂く、自分にならせて頂く事の稽古をする。これは自分が助かって行く事のためなんです。皮肉に人の足元を見たり。にくたらしゅう人の足元を見たり。もう皮肉の一つも言わなければならない時はね、自分自身がいよいよ助かっていない時ですよ。だから、いわれる方も必ず傷つく。
 けれども、言うた方もやっぱり傷つく。それよりも、それよりもちゅうか、それではいけんのだからね、それがもっと豊かな心で、いうならばまぁ神心でそれが見えれるようにならなければならん。まぁあの人の程度では、あぁでもあろうと思わせてもらんです。まぁあんくらいの年配じゃ、そこが分からんのも当り前じゃろうとこう思うんです。私はそういう稽古をするということがです、わが身の上におかげを受ける事だと、今日は思うのですね、よく言う人があります。
 もう私共、本当に貧乏しとってから、人をお導くちゅうなんてんでけん。人からこりゃあんた信心しよったっちゃ、そげんあんた貧乏しよるじゃんのちいわれたら、もうそれきりと。だからまぁ、ちっともうけ出てからでもお導きはするというような人がありますけれどもね。そげなこつ言いよるなら何時までんその人は金持ちにはらんです。そん心掛けが悪かもん。なるほど貧乏こそさせて頂いておりますけれども、それこそ私の心の中は、ね、御大師様じゃないけれどもそれこそ。
 「空海の心の中に咲く花は、彌陀より他に知る人ぞなし」と。思える程しの心の状態を、自分の心の中に頂いておるち。私の心の中にある信心の喜びというものは、もう天地の親神様より他にご存知の方あるまいと、思われえる程しの心を頂いて行く。昔の自分だったら、それこそ鷲のような目で見ただろう。それに目に余る様な事見た場合、ところが今日の私はそれを、豊かな豊かな心でいうなら、神心でそれを見せて頂いて、相手を祈っておる自分に気が付いた時です、私は助かっておるなぁと言う事です。
 成程お金持ちにもならなきゃなりません。家庭が円満にもならにゃなりませんね、稽古にもならなきゃなりませんけれども、それよりももっともっと前にです、私の自身の心の中にです、彌陀より他に知る人ぞなしと言う様な、心の状態を頂いていくと言う事。その心が親切になっては、現さなければおられないのである。先日秋永先生がお話してました中にね、お道の話を人にでもすると言った様な気持ちがさらさらなくなっとったら。この頃は何か知らん、人に合うと道の話しをしなければおられん。
 信心の話しをしなければおられんというておるのです。それはそこ一段一段。これは様々な時がありましょう。信心のいわゆる入信したばっかり。始めてお道の話を聞かせてもろうた。はぁ本当にそういう事実があったんだ。そういう真実な生き方があったんだと、参ったばかりで分かる。もう帰ったら、人に話さなければおられないという。お願をすりゃおかげを頂く、金光様ちゃ新たかな神様よと人に伝えなければおられないという時代もある。かというと、段々信心が分からせて頂いてです。
 とても今日のところ、人の段じゃない、自分自身がおかげを受けなければと言った様な時代になってくるです。一段一段進んでいきよる証拠です。いわゆる秋永先生達の場合なんかもやっぱそうであろうと思う。ところが最近の私は、人に一言でも何か道の話しをしなければおられないものがある。いや道の話というよりも、合楽の話しをしなければおられない思いがするというのである。自分自身が助かって行きよる証拠。
 ですから私はね、形の上のおかげを頂かなければという、ここではわが身の上におかげを受けてと仰るのは、そういう意味に頂かずにです。わが身の、身の内。自分の心の中におかげを頂いてと言う事。自分自身がこの頃楽になった。成程本当にいわれるように貧乏しとりますけれども、合楽に御神縁を頂いて、おかげを頂くようにならせて頂いたら、第一自分の心が楽ですよと。心配がなくなりますよと。
 いや今まで苦労と思うておった事は、かえってお礼ば申し上げるような心すら、この頃出来てきましたよという、それを話すのです。お参りしたら、こげなおかげを頂いたという形の上ではなくて、そんためにやはり自分自身が助からなければならん。そん自分自身が助かる事の為に今日は一つわしがを取れというのです。わしががあると人の足元をそれこそ、わしの目つきのような見方をしなければならん。いくら言うたっちゃこんやつばっかり分からん。
 もうこんやつは、というてもう自分の心が鬼のような心になっとる。人を責めるだけの心。この人なら、この人の程度なら、そりゃもう場合にはね、あのまぁなんちゅう汚い人じゃろうかという時もありますよね、相手人間が。げさっかと。そういう時には、もうどうした奴じゃか、と言う様な思いだけしか、本当に私共しませんでした。以前。まぁどうして汚か奴じゃろうかとこういう。
 けれども、この人にとってみれば、これが当り前じゃろうという思いがするようになりました、この頃本当に。だから汚い人なら汚い人のようにです、それをある意味では満たしてもやり、ある意味では、そこんところをもういっちょね、汚い心よりも麗しい心になったら、こげん楽なという事を聞かせたり、見せたりしたいという気が起こり、起こっておりますね、私の心の中に。
 もらうとだけは好いとるけど、やるとは好かんと言う様な人がありますよ。そういう時には多いに一つやってみせて、自分が助かっておる姿を見せなきゃいけん。私は人を見るという事は、そういうね、いわば、助かり方をして行く事によってね、人を助ける事が出来ると思います。なるほどまず自分、自分の身の上に、まずわが身の上におかげを受けてと仰るのはこういう事であろう。
 金光大神が、此の方は人が助かる事さえ出来れば、と仰ったのはね、今日のここんところです。「人よりわれはなおよけれ」「まずわが身におかげを受けて」というのは、人を助けるという事が前提だということ。人は人が助かることの為に、まぁそれをもう少し柔らかに言うとです。一家中なら一家中の上にです、一家中の者がもうちっと楽になるために。もうちっと助かる事の為に、私がより豊かに助からなければならんという事になるのです。例えば主人が家内をせめね、子供を責める。
 わしはこんなに働きよるとに、お前達のような、と言う様な見方ではなくてです、それでは家の中の、いわゆる見られる方も見る方も助からない。そこで家の中が本当に助かるためには、私がいよいよ疑問の中の、一番口に私が助からなきゃならんと言う事になるわけなんですね、そして、人を決めつけると言う様なね、わしの目で見るような見方をしないですむ。豊かな心の中でそれを包含して行くような見方。そういう見方が出来るおかげを願うという事がです、人助かること。
 もうすでに助かっておるね、家の中で人ばっかり責めるとが一人おってご覧。家中がもうそれこそ、わしからにらまれとるもんで、びくびくしとらにゃんね、それが穏やかになって行く。いわゆる家庭の和と言うというものがそこから生まれてくる。家庭だけではない。自分の職場においてもしかり。先ずわが身におかげを受けてと。と言う事はそういう自分の周囲が助かる事のため、自分が助かるため。自分の周囲が助かる事の為に、先ず私が助からなければならんということになる。
 お互い助かりましょうや。本当に助からにゃいけません。そのためには一つ本気で自分の一つの我というようなものをですね、気付かせてもらって。そりゃ本当に自分が働き、なら例えばここへ私が一生懸命、まぁ頑張らせて頂いておると致しましてもです。家内が、いわゆる内助の功がなかったら出来やしませんです。なら子供達がです、私の場合ね、もう7人の子供達がです、まぁ形の上に現れとらんけれども、実際は私の手になり足になって、働いておってこれるから私が私としてあるのです。
 私のいわゆる我というものを、取り除かせていただきますと、そういことにまでなってまいります。もう二十年も前ね、私の着ておるこの紋付これは大坪の家のは梅鉢なんです大体は。梅の中にわが子はあるのですね、神様がこの輪をとれという事を頂いた。まぁその時分考えてみると、まぁ輪のない生活に段々入っていきよったんでしょうね。人をせめるような心が段々無くなってきておったんでしょうね、自分の心のいわゆる、我情我欲が段々少なくなって来た。我が。
 だからその我がある間はどんなに自分の思う通りに自分の家内なら家内、子供なら子供ば、自分のそれこそ、手のごと足のごと使うたところでです、我て使っておるのですから、この梅鉢よりも大きくなること出来ません。こりゃもう、かったりと自分の住んでおる部屋だけは、もう、それこそ塵一つないようにしてからね、家族中の者に散らかすな、散らかすなというてきちっとしとる人があります。その程度しか出来やしません。自分の見とる範囲しか出来やしません。
 この頃から、ここであの、信者の集会があった時に、他所の信者さん方がね、あのもうこれは異口同音に言われることはね、合楽の教会の信心じゃなくてから、お広前のすみからすみまで整頓が出来ておるという、まぁ行き届いた設備が出来ておると言う事が、返事になって帰って来たから、がっかりしたというて、あぁその秋山さんでしたか、そう仰ってました。自分の親戚のもんがあん時きとった。どげん風じゃったの合楽はちゅうたら、ほりゃもうありがたった、信心お話が有り難かったじゃなかった。
 いわゆるこのお広前のすみずみまで、いわばきちっとしてある事に驚いた、といわれたと言う事ですがとね。私の部屋だけがきちっとしとるじゃなくてからね、もう私の手の届かんところまで、きちっとできると言う様なおかげを頂くためにはね、やはり私自身が我を取らなければダメなんだ。私がこの輪をとらせて頂くと言う事は、限りなくこれ大きくなっていけれる。皆がだから大きなおかげを頂くためにもです、我をとらなければ大きゅうはなりません。
 ただ自分の我の中に、はまってしまうようなおかげなら頂けてもですね、大きなおかげを願うならばです、まず自分の我をとらにゃいかん。この鉢を丸い輪をとらなきゃいけんね、梅鉢を。そすとこの実はなんぼでも大きゅうなれるわけです。お互いねその我を取ると言う事がです、もう助かると言う事に繋がる自分自身が。しかもそれをです、いうならばです、大きなおかげを頂いていくと言う事の意味にも繋がるのです。
 同時に人が助かると言う事の上にも繋がるです。自分が助かると言う事は。もう自分の、私が助かる事には家内がもう助かる。私が助かることには、もう子供が助かる。自分が助かっておらんから、家内も子供も助からん。ね、職場に置いては自分の周囲の者までも助からん。まず自分が助かる事、と言う様な事をです、ここでは教えておられると思うのです。昔から、「人もよけれわれもよけれ、人よりわれはなおよけれ」というておるがと、いうところを聞くとね。
 まぁ何か、人もようなからんなんばってん自分がよう、先に良うなからにゃならんていうて、なんか押しのけてでも自分がまず、自分さえよかれと言った様な風に聞こえますけれども、決してそうではない。わが身の上におかげを受けてと言う事は、私が身の上におかげを受ける、私が助かると言う事は、もう人を助けると言う事に繋がっておると言う事ね、「神信心も手習いも同じこと。一段一段と進んでいくのじゃ。にわかに先生にはなれんぞ」と言う所は、秋永先生の例をとって聞いて頂きましたですね。
 様々な過程があります、信心の一段一段進んでいきよならければ、そういう風な変わり方がありません。変わっていかなきゃいけません。自分自身がいよいよ助かっていく事が、そのままね、此の方は人が助かる事さえ出来れば、というそれと同じ意味を持つものだ。どうでも皆さん、神心をいよいよ神心としてね、私共の心の中に頂いて、人が助かることだから願えれるおかげを頂くという事はね、自分自身が助かる事に精進させてもらわなければならんと言う事を申しましたね。
   どうぞ。